
『社長の条件・軌跡』 大きな挫折3!更新しました

『社長の条件・軌跡』 大きな挫折3!更新しました 2015.02.17
五 父からのバトンタッチ
病院の待合室に母と姉の恭子がいた。母親は「博。お父さんが。お父さんが」と言って泣くばかりだ。埒があかない。姉もおろおろしている。
「お父さん、脳梗塞らしいの。居間のソファーからくず折れるように倒れたの。意識が混濁していたわ。右半身も動かなかった。それですぐに病院に。3時間くらい前よ。それで病院にきたらすぐにCTスキャンをとって、いまは集中治療室で点滴を受けている」
姉は一息にこれだけのことを話した。その後、沈黙が続き、再度口を開くまでに数分の間があった。
「ねえ、博。どうすればいいの。これから私たちはどうすればいいのよ」
「大丈夫だよ。親父はすぐに回復するよ」
「・・・でも」
(親父に一体何が。脳梗塞だなんて。あんなに身体が丈夫で、いまでも仕事をほとんど休んでいないはずの親父が・・・。風邪一つ引いたことがない親父なのに)
高畑は、姉の肩を抱き、大丈夫だと何度も言った。
まだ学生の身分とはいえ、男の高畑を家族はみんな頼りにしているのだ。いままさにそのことを、高畑はしっかりと認識した。
(こういうときは、長男の自分がしっかりしないといけない。家族のためにも、俺自身が毅然としていないと)
そう固く心に誓った。
(親父、がんばってくれ)
家族の父親を思う気持ちが天に聞こえたのか、一時は命も危ないとされた父親の容態も、安定に向かったことが医師から告げられた。入院してから2週間後のことだった。
(命は助かった。よかった)
集中治療室での治療が2週間、ついにリハビリを行うことができるとのことだった。高畑はずっと病院につきっきりで、父親を、そして家族を励まし続けた。感傷的な思いにひたる暇もなかった。
ただ、高畑は、焦っていた。
(練習をしたい。2週間分の練習を取り戻すのはたいへんだ)
(親父はもうすぐ絶対回復して退院できるはずだ。それまで僕が家族をサポートしよう。親父が回復したら、大学に戻って練習をしよう)
こんな緊急時でも、箱根に出たいという思いを消すことができない。自分に情けなさを感じた。俺は親父をこんなに好きなのに、心は陸上の方を向いている。不謹慎ではないか。そう思いながらも、すぐに、頭は、親父は絶対すぐに回復する。それで大学に帰れる。そればかり思っていた。
しかし、それは甘い考えだった。単なる都合のいい期待に過ぎなかった。医師からは、次のようなことを言われた。
「急性期で治療も早く行うことができましたが、症状は決して軽いものではありません。これからのリハビリ次第ですが、現在失語症の症状も見られます。これが一番の問題です。また、右半身にみられる麻痺を完全に治すことは難しいでしょう。同様に、感覚障害も生じています。残念ながら脳梗塞によって死んだ神経細胞は生き返りません。これから長いリハビリを続けて新しい神経ネットワークをつくっていかなければならない。リハビリは家族の励ましや理解がたいへん重要になります。これまでのように仕事を続けることはできません。しかし後遺症と付き合いながら、なんとか日常生活ができる状態を目指しましょう。皆さんもお父さんと一緒になって、がんばってください」
「えっ。親父はもう仕事ができないのですか。親父は・・・」
それ以上、何も言えなかった。
がっくりと肩を落として高畑は診療室を出た。
待合室の椅子にかがみこんで、先ほどの、医師の話を思い出した。あまりにも唐突すぎる宣言だった。まったく予期していなかった。親父は、すぐに回復して仕事に復帰する。そして、自分も大学に復帰する。そう信じて疑わなかった。
しかし、冷静に考えると、この結論はすぐに予想できるはずだった。
(脳梗塞で命を落とす人もいる。親父は、命には別状はないのだから、よかったじゃないか。歓迎しなければいけない。しかし、一体親父がいなくなったら、俺はどうなるんだろう。親父の会社は? こういうときこそ、家族を助けるのは、俺の役目じゃないのか)
そのとき、7年前の箱根での記憶がよみがえった。
父親の懐かしい声が聞こえた。
『お父さんも、いつかもう走れないというときがくる。そのときは、博がお父さんのたすきを受け継ぐんだからな』
(そうだ。俺は親父と約束した。親父が仕事ができなくなったときには、俺が受け継ぐんだと。それがまさにいまだ)
(しかし、いま箱根駅伝をあきらめたら一生後悔する。今しかできないことじゃないか。まずは箱根の夢だ。これをなおざりにしては、後悔する。箱根を、自分の思いを犠牲にすることはできない)
高畑は相反する2つの思いに、胸が張り裂けそうになった。一体どうしたらいいんだ。答えは出なかった。
杉浦に相談をするために、ひとまず飛翔寮に戻ろうと思った。しかし、俺は杉浦先輩に何を相談するつもりなのか。結局は自分が決断しなければいけないことだ。そう思い直した。
葛藤を抱えたまま、高畑は父親のリハビリをサポートした。失語症のリハビリのため、大きな声で文字を読む訓練が行われた。簡単な文章を読むだけで、非常な時間がかかった。
「ワ・タ・シ・ハ・・・」
高畑は父親の現実を見て、その場を去った。
いたたまれなくなった。
自分の家に戻った。泣きながら、ペンをとり、便箋に次のように書いた。
「杉浦先輩。
お世話になりました。
先輩、僕は先輩に謝らなければいけません。
一緒に箱根駅伝に出ようとの約束。
僕は果たすことができません。
直接お伝えしたかったのですが、いまは会うことができません。
非礼を、重ねておわびします。
杉浦先輩は、絶対に箱根駅伝に出てください。
僕の分までがんばってください。
活躍をお祈りしています。
高畑博」