
『アクシデントが好転、人生最高の出会い!』PARTⅠ掲載しました

『アクシデントが好転、人生最高の出会い!』PARTⅠ 2014.12.01
一 夢をつかむために
駅を出て、閑静な住宅地を抜けて数分歩くと、下りの坂道になる。その先には、整備された400メートルトラック、同じ大きさのサブグラウンドが3面、そのぐるりには専用の部室、室内練習場などが点在している。
すべて東洋文化大学陸上競技部の施設だ。
高畑博は立ち止まって、背伸びをするようにした。まだ、ここから見えないが、その広大なトラックの奥には、伝統ある東洋文化大学陸上部の合宿所、「飛翔寮」があるはずだった。高畑がこの日、1986年の3月31日から約4年間、生活するはずの寮である。
高畑博は、足早にそちらのほうに向かった。
天気は快晴だった。雲ひとつなく、3月の澄んだ空気にあたりは包まれている。
都心からわずか30分圏内であるにもかかわらず、風景がまったく違う。大きなグラウンドが広がるこの場所は、広い空一面を見渡すことができた。
こんなに広く、立派な施設を間近に見るだけでも、陸上部の実績、そして大学がかける期待の大きさが分かる。
歴史と伝統のある陸上競技部に入部し、この寮で暮らすこと、これは高畑にとって、何年来の目標であった。その先にある夢をつかむための大きな目標であった。
二 箱根駅伝に出よう!
思い込んだら、がむしゃらに突っ走る。
高畑博の性格を表すにはこのひと言でいい。
箱根駅伝を間近で体感した日から3カ月が過ぎ、高畑は中学生になった。
ちゅうちょなく入部したのは陸上部。
高畑は小学生のときは、野球部に所属していた。江東区内で彼の投げる球を打てる打者はほとんどいない。彼を完璧に抑えられる投手も、まずいない。不動のエースで4番の存在。それが高畑だった。
だから小学生からの同級生たちは、もちろん高畑は野球部に入るものだと思っていた。
それが意外にも陸上部。たしかに高畑は足が速い。しかしずばぬけて速いわけではない。彼以上に速い人間は学校に1人か2人はいるだろう。野球部に入ったらおそらく1年生のうちにレギュラーになれるだろうに。
友人たちは不思議がったが、高畑に迷いはなかった。
しかし、である。
意気込んで入った陸上部だったが、顧問の教師は名前だけ。練習にはほとんど顔を出さない。また先輩も2人しかいないがその先輩たちもやる気が感じられない。そんな形だけの陸上部であった。
それでも高畑はくじけることはなかった。
指導する人がいないのなら、練習は自分で考える。自分でトレーニング表をつくり、我流の練習に精を出した。
ただ、その練習法は一風変わったものだった。彼は、ただひたすら長い距離を走ることに徹したのだ。
走った距離だけ、方眼紙の小さなマス目を黒く塗りつぶす。黒く塗りつぶした面積が大きくなるだけ、箱根駅伝が近くなるような気がした。
高畑にとってはきわめて理論的な練習であった。
自分の目標は箱根駅伝に出ること。中学の大会で勝てるかどうかは関係ない。
箱根駅伝は1人20キロを走らなければいけない。だったら、長い距離を走る練習をいまからしておいたほうがいい。そう思ったのだ。
もちろんそんな長距離レースは中学の大会にはない。だが高畑は、毎日毎日、10キロ以上の長距離走を繰り返した。
スピードを競う中学校の陸上競技大会で、高畑はさして注目される選手ではなかった。しかし、高畑としては、それで構わなかった。目標はあくまで箱根駅伝においてある。
中学を卒業すると、都立高校に進学した。中学よりは状況はましだが、ここもとりたてて強い陸上部ではない。いい選手もいたが、たいてい短距離の選手で、駅伝のメンバーさえ集まらない。12月に京都で行われる全国高校駅伝競走大会へ出場を目指すことすら、おこがましい。そんなレベルであった。
しかし、高畑はこのときも全体練習が終わった後、一人もくもくと長距離を走った。
高校時代の成績は、やはり、全国に名前をとどろかせるような記録をあげられなかった。都の大会でもっともいい成績が5千メートルでベスト5。インターハイには出場できるはずがない。
(1万メートルだったら、俺はトップランナーとも勝負ができるはずなのに。まあいい。勝負は大学になってからだ。それまで実力をつける。勉強もして入試を通って、東洋文化大学陸上部に入るぞ)
そんな彼だが、3年生になったとき、思わぬ幸運に恵まれた。1万メートルのレースを走る機会を得たのだ。
私立恵比島南高校をはじめ6校との合同練習でのことだ。それに高畑の学校も参加したのだ。
恵比島南というと、高校陸上界では知らない人はいないというほどの名門校。京都で行われる高校駅伝にも毎年のように出場し、過去には2回も全国制覇を成し遂げた実績がある。
なぜ、高畑が通う高校が合同で練習をすることになったのかといえば、恵比島南高校からあの東洋文化大学に進み、卒業後、実業団で活躍してから母校に戻って陸上部監督を務める、吉田鮫男の存在が大いに関係している。
吉田は、5年前まで某企業の陸上部に所属していた。マラソン選手で、オリンピックにも出場したことがある。その吉田は現役を終えると、海外にコーチ留学をし、昨年日本に戻ってきた。
考えた末に母校の陸上監督に就任した。
吉田はもちろん母校の成績を上げることが目標だったが、それだけではない。オリンピックにまで出た自分の使命は、高校全体の陸上のレベルを底上げし、将来、日本の陸上界をしょって立つような人材を探すことにもあると考えていたのだ。場合によれば、母校の東洋文化大学に推薦したっていい。まだ若い吉田は、使命感に燃え立っていた。
そのためには、自分が、幅広く選手を見る機会をつくる。同時に指導法を教えるなどの支援も惜しまない。そう考え、定期的に各高校と合同練習を開いているのである。
この合同練習に、高畑たち、弱小陸上部も参加することになったのだ。
ひと通り、練習を終えると、吉田はある宣言をした。
「よし、最後は1万メートルの記録会を全員でやるぞ」
長距離の資質を持った人間は世の中にいる。しかし、なかなか適当なレースがないから、その実力をはかる機会は少ない。こればかりは、実際に走らせないと能力はわからないのに・・・。埋もれている宝は発掘しなければならない。
とりわけ、長距離に強い人間を探すことに、マラソン選手だった吉田は特別な熱情をもっていた。
ただ、突然の吉田の宣言である。みな混乱した。
改めて質問した者がいるが、やはり全員参加は間違いない。それまでの練習が普段に比べて、あまりにきつかったので、ほとんどの参加者はいやいやのていだった。
が、高畑は俄然燃え出した。
(自分がどれだけ走れるか、試してみようじゃないか)
吉田の号令で、いっせいにスタートした。さすがに恵比島南高校の選手たちは早い。スピードでは高畑もついていくことがやっとだ。
しかし歯をくいしばり懸命についていった。6年間に及ぶ連日の長距離走が思いがけない舞台で役立ち始めた。息が切れないのだ。
終盤になると、さすがの恵比島南の選手たちの中でも落伍する者が現れ始めた。高畑はそういう選手を1人ひとり追い抜いた。最後の1キロの時点では高畑の前方には数人しかいなくなった。インターハイでも好成績を出している有名な選手もいる。
(なんだ、俺はまだばてていないのに、もう前方には何人もいない。俺にはこんなに実力があったのか)
信じられなかった。そして、ラスト400メートルという時点で、最後の1人を追い抜き、トップでゴールした。
われながらびっくりする好成績だった。
驚いている人間がもう1人いた。吉田だった。
(誰だ、彼は。さっきの練習ではそれほど早いという印象はないぞ。しかしフォームもぜんぜん崩れていないし、ばてていない。走り方は荒削りだが、可能性を秘めている。もしかしたら俺は宝を見つけたのかもしれないぞ)
このときの力走を吉田は過剰に評価した。
これがもとになって、高畑のもとには憧れの東洋文化大学から、推薦状が届いた。全国レベルの選手しか採らないといわれる東洋文化大学にとっては、まさに前代未聞の特別推薦だった。一般入試から、東洋文化に入学し、陸上部に入る青写真を描いていた高畑にとっては、まったくのサプライズだった。
つづく・・・