
『生まれてはじめてみたのも』PARTⅡ掲載しました

『生まれてはじめてみたもの』PARTⅡ 2014.10.31
箱根駅伝――。
正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」。
東京の大手町から、鶴見、戸塚、平塚、小田原、そして箱根町芦ノ湖までの往復200キロ以上を10人のランナーが1本のたすきでつなぐ駅伝レースだ。始まったのは、1920年のこと。その3年前に行われた東京遷都50周年記念東海道駅伝競歩競走の発展形として始まったわけだが、そもそもは1912年のストックホルムオリンピックに日本人としてはじめてマラソンに出場した金栗四三の提言によるという。金栗が、国際的に活躍する長距離選手の育成を主張し、この駅伝大会が開催されたのだといわれている。
その後、1953年からNHKラジオの全国放送、さらに第63回からはテレビ放映が始まり、国民に人気の新春スポーツとしてすっかり定着した。
博のような小学生も、その存在くらいは知っている。特別な思い入れがあるわけではないが、父親とともに、何気なくブラウン管の中で繰り広げられるレースを毎年目にしている。
そんなわけで、このときの父親の提案は特段彼をわくわくさせるものではなかったが、「そうしましょう」と母親が間髪を入れずに賛成し、それにつられて「見よう、見よう」と大声を出していた。
高畑一家は、翌1月2日10時ごろ、選手が通過する1時間も前からコース脇の道にあたる、旅館のすぐ前の道路わきに陣取った。通称宮ノ下地点である。
周囲には駅伝好きな観客が大勢埋め尽くしている。
文字通り鈴なりの状態である。
ポータブルラジオを聞きながら興奮している老人、待ち遠しそうに小旗を振る中年女性、さらに大学の応援団だろうか、学生服に身を包んだ若者の一団もいる。大きな校旗を振りながら、声を張り上げている。
こんな雰囲気に触れて、当初はそれほど気乗りしていなかった博も、だんだんと自分が興奮してきたことを感じた。
(何かすごいことが始まるんじゃないか)
そんな予感を覚えた。いまにも、まだ来るはずのないランナーが思いがけず、その大きくカーブした道の影から姿を現しそうな気がした。身震いがとまらなくなった。
しかし、一方では博は(それにしても)と思った。
いまこの目の前の道がどれほどの急勾配であるか、さらにこの坂道がどれほど長く続くのかということは、界隈を散歩してみて知っている。走るにはいかにハードなコースであるかはそれだけでもよくわかる。こんな峻烈な道を駆けるなんて、信じられない思いがした。旅館の仲居さんも、この地点は箱根駅伝5区のいちばんきついところだと先刻教えてくれたのを思い出す。
このコースの5区は、通称「山登り」。
そのゆえんは、700メートル以上の標高差にある。
20キロほどある距離のうち、16キロはただひたすら坂道。それも急激な坂道である。それを一気に駆け登り、そして最後の数キロを一気に駆け下りるという難関コースがこの5区だ。
平地とは異なり、たんなる走力、技術以上の、選手の精神力が決定的な差になる。
つづく・・・