
『社長の条件・軌跡』 第二章 呪縛、DNAを受け継ぐ挑戦と責任の苦悩!

『社長の条件・軌跡』 第二章 呪縛、DNAを受け継ぐ挑戦と責任の苦悩! 2015.06.12
第二章 呪縛、DNAを受け継ぐ挑戦と責任の苦悩!
「人間はとても身勝手な動物、純粋の中のエゴイスト登場・・・」
一 父の志とは何か
高畑建設は、昭和45年、高畑博の父親、義男が38歳で設立した建設会社である。
義男は18歳のときから一貫して建設業界で生きてきた。高校卒業後、地元の建設会社に就職し、そこで約20年間、営業職を担当した。常にお客様に喜んでもらえる住まいの提供を心がけてきた。
が、不満もあった。それは、彼が属していた会社へ、というよりむしろ、日本の戦後の住宅業界全体に対する不満であった。
日本は戦後、アメリカの庇護のもと、好景気が長く続いた。経済の急成長、産業の勃興、地価の暴騰などの繁栄により、世の中は大量生産、大量消費の時代に入った。
住宅の世界も、例外ではない。日本は、右肩上がりの経済成長、都市化や核家族化などにより、住宅産業が拡大した。しかし、そのことが必ずしも、消費者にメリットを与えているとは、義男は思えなかった。
本来なら業界が大きくなり、良好な競争が行われることで、消費者はいいものを安く手に入れることができるはずだ。確かにそうなった面がある。
しかし、日本の住宅は、決定的な弱点があった。
それは、寿命の短さである。
欧米諸国では、木造住宅の耐用年数は、45年から60年。しかし、日本では20年前後と明らかに短い。
義男も自分が精力を傾けて、職人たちと力を合わせてつくりあげた家が、20年前後で取り壊される。その光景を目にするたびに、なんともいたたまれない気持ちになった。
また業者も寿命が短いことを見越して、家づくりを安易に考える傾向があった。土地高騰時代は、あくまでも土地が主で、住まいの器は従、こういう関係が成り立っていたからだ。
しかし、義男も住宅産業の在り方がすべて悪いとは思っていない。
住宅産業の拡大によって国民は住宅を手に入れることが容易になった。「マイホーム」という言葉が定着し、戸建の住宅に住むことがある種のステータスになった。これ自体は素晴らしいことである。
日本の持ち家志向の高まりは、この戦後の住宅産業の拡大と大いに関係がある。戦前の日本は住宅に占める持ち家の割合は3割程度といわれているが、いまでは6割を占めるまでにいたっている。
しかし、せっかく建てた家の寿命が短いというのは、消費者には不幸であることは間違いない。長期ローンを組んでやっと家を建てても、一生住むことができないとしたら、経済的にも大問題だ。
大量生産、大量消費は悪いことではない。けれども、住まいが単なる商品、耐用消費財に陥ってしまっている現状は、おかしい。そのことが義男にはいかにも不満で、正すべきことだと考えた。
第二次世界大戦時に首相を務めたイギリスのチャーチルは、「人は住まいを創り、住まいによって人が創られる」との言葉を残している。義男はまったくそのとおりだと思った。これこそが、文化的な生活だと思った。
住み心地のいい家、そこに住む人間が心身ともにくつろげる。長い時間をすんで、住まいに愛着を持つ。そして住まいとともに住んでいる人間が成長する。
そんな家を自分はつくりたいという思いがますます強まり、独立を決意したのだった。
もちろん、義男はそのような志向を持ちつつも、ボランティアで家づくりをするわけではない。お客様に満足される家をつくることで、お客様の信頼をかちとれば、他社との差別化が図れる。長期間、快適に暮らすことができる性能を持った高品質な家。それが評判となれば、新たなお客様を獲得できる。
地味で小規模の会社であっても、お客様とのウィンウィンの関係を築くことができると確信した。
家は、人生の中でもっとも基本的で重要な「住空間」なのだから、なおさら消費者は品質のいいものを潜在的に欲しているであろうと読んだ。
その義男の読みがあたったか、高畑建設は、地味ながら地元に根ざした一企業として、お客様の絶対の信頼をかてに、堅実な経営を続けていた。大成功とはいえないが、毎年少しずつ成長して、売り上げは現在15億円、営業利益はその2割ほどであった。地域ではなかなかの建設会社である。
人員は、義男を含めて15名。経理担当、事務処理の女性スタッフが1名ずつ。さらに設計が2名。そのほか、9名が現場監督。工程管理が1名。いずれも義男に長く仕えた古参の社員ばかりである。
気心を互いに知り合っている。義男は営業を一人で務めていた。
義男の志を反映して、中心となるのは新築の住宅建築。お客様と長い時間、家のコンセプトなどを話し合いながら、丁寧に段階を踏んでつくっていく。建築に素人であるお客様にも懇切丁寧に分かりやすく話をする。
多少、他社よりも割高になる場合があるが、それはお客様も納得済みだ。お客様も、いま目の前で必死に自分の家のために奔走している義男が、目先の儲けに走る人間ではないということは容易にわかる。義男に任せれば、多少高くてもかまわない。いい家ができるのなら高くても結構だった。
このほかに高畑建設では、2階建てから4階建て程度の低階層集合住宅の建設、施工管理を頼まれることもあるし、大手ゼネコンの下請け業務もある。さらに、大手企業の施設のメンテナンスも手がけていた。これは製造ラインの切り替えによる電気工事や床の補修などだ。
このようにさまざまな仕事がまいこんでくる背景には、やはり、会社の評判の高さがあった。技術の高い職人さん、いい建材を使っているし、アフターケアもしっかりしている。また義男の人柄も抜群にいい。高畑さんに任せたら安心だとみなが感じている。
むしろ、そのせいで、義男は頼まれた仕事を断らなければいけないこともしばしばだった。仕事が多ければ、その分、会社の規模を大きくすればいいと誰もが思ったが、義男はなかなか踏み切らなかった。
人員を増やせば、なるほど、もっと仕事の量を増やせる。しかし、いまの質を維持できるか。自分の目の届かないところも出てくるだろう。高畑建設は、質の高さ、お客様の信頼で成長し続けてきた会社である。その基本を忘れて規模拡大をしたら、本末転倒だ。
そんな考えが根底にあった。
だから、取引先や、知り合いに、
「義男さん、今こそ会社を大きくしなよ」
と言われても、頑として首を縦に振らなかった。
ただ自分の経営スタイルは、お客様と自分の一対一の信頼関係を構築して行われる。これでは大きな成長は望めないことも分かっていた。それを踏まえて、次のように答えるときがあった。
「もし、会社の規模を大きくするときが来るとしても、それは自分の仕事ではない。自分の能力を超えている。でも、もしかしたら、息子が自分に代わって、拡大するかもしれない。それはそれでいいと思う。自分の考えを押し付けるつもりはない。ただ、高畑建設の基本方針、『質の高さ、お客様主義』だけは絶対変えさせない。まあ、息子が大学を卒業したら、みっちり俺の下で修行をさせるつもりだよ」
その義男が、突然脳梗塞に襲われた。53歳という若さであった。
会社は突然、屋台骨を失った。社員は今後の仕事はどうなるか。自分たちの雇用はどうなるかと不安に思った。高畑建設をひいきにしているお客さんたちも、これからのことを想像して色めきたった。高畑建設が設立されてから、義男不在という初めての、危機的状況に陥った。